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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

今拓く華と路と空と風 1

  今拓く華と路と空と風 (その後の事)


七十までの生きてきた歴史を書いてひと段落している。
 これからの生き方をとっとっと綴れたらいいと思う。

     冬の風

 この歳まで生きていたら何時最後が訪れても文句はないということか。
 単調な日々が訪れている。そんな日、
 私が三十五の時に書いた「立石孫一郎伝」についてパソコンから探してメールをくれたのは大橋敬之助の子孫の方であった。最近敬之助の血の流れが自分に続いていると分かったらしく色々と資料を集めていると言ったものだった。その方は障害者でありながら手話で演劇活動をしていると言う。
帰趨の出会いであった。
 私はその書いたものをメールで送り、司馬遼太郎氏が「倉敷の若旦那」を書いている事。江夏美子さんが「脱走兵」と言う作品を出している事を告げた。二十年前に小説を原作にして「天領倉敷代官所炎上」に脚色し倉敷市芸文館大ホールで公演したことも伝えた。
 私はこれまで倉敷を題材にして小説を書き、それを脚色して公演を続けていた。
 立石孫一郎を知ったのは、映画を何作か監督をした田辺泰志さんから教えられた。彼の大学の先輩の郷土史家角田直一氏が「倉敷浅尾騒動記」を上梓した事を教えられて読んだのがきっかけとなり、郷土史家の井上賢一さんを訪ねて色々と教えてもらった。公民館で会い仲良くしてもらっていたのが縁だった。
 井上さんから教えてもらったことから自説を作り創作として小説を書いた。この作品は地方の賞で入選した。
 角田氏、司馬氏の影響を全く受けないように書いた。
 その事も大橋さんには告げた。私の立石論を展開したという事だ。
 今年、立石孫一郎百五十年を記念して倉敷市役所は保存している資料の公開をした。
 世論はまさに立石の行動について賛否両論にわかれているさなかの事であった。
 この件は書いた頃の思いを振り返らせてくれた。
 立石の事を今の思いで書き直してもいいかと少し資料を調べ直そうかと考えている。
 大橋さん、倉敷に来られて色々と新しい発見がありましたか。
今、歴史家、小説家のなかでは立石孫一郎の行動が竜馬と同じように維新に貢献したという話が多く聞くようになりました。明智光秀を本能寺の変の謀反人ではないと言う証拠をつかんで歴史を変えをとしています。その方も立石の功績を認めておられます。竜馬と同じように維新のために行動し殉死したと言う事を述べておられました。惨劇の主人公と称されていました。
私が真備までいけませんでしたので立石孫一郎を演じた息子に行ってもらい沢山の写真と資料を貰ってきてくれました。
一応目を通しました、が、玉島は備中松山藩の飛び領地の庄屋宗沢家、岡山藩の福田村の庄屋佐藤家などは大分離れているので参考になると思いました。当時の岡山藩は徳川慶喜の弟が藩主であり、松山は老中板倉の自領であったという事で、徳川の方から見る事が出来たという点で貴重だと思われた。が、倉敷の村役がどのように書き残しているか、当時はその人達は保身で薩長と幕府にも良い顔を見せなくてはならず、維新前と言う事もあり、私には不明なのです。
私は、下津井屋事件は代官によると断じました。櫻井が代官になって先の代官大竹が下した裁断をひっくり返し「倉敷は港ではないので津留めなど起ころうはずがない」無罪にしています。それに待ったをかけたのが大橋敬之助、御正道を批判したのです。櫻井としてはそれを利用して事件を起こし尊王をあぶり出したという事を書きました。
敬之助は大谷家の血筋です。母方は立石家の血筋です。大橋家のおけいの母は立石家の血筋です。つまり敬之助とおけいの母は姉妹です。その子、いとこ同士が結ばれています。
と言う事は大橋さんは大谷家、立石家、大橋家の血筋を持って生まれてきているという事になります。
敬之助は庄屋道を学び庄屋学を修めています。江戸時代には武家には子孫繁栄を考えて「嫁はお尻の大きい人を」と言う考えがありました。それは庄屋も同じであった事に間違いがありません。
血を絶やさないと言う事絶対にしてはならない事だったのです。それは死しても生き続けると言う考えです。
はたしてそんな時勢に、日本が大きく変わろうとしていた時期にしてもそう簡単にその身分を捨てられたでしょうか。
敬之助は良寛の生き方を学んでいます。それにあこがれたとしたら余計に短慮だったとは思えません。良寛も大庄屋の子として生まれなにもかも捨てて自由に生きた人です。
敬之助と同じように庄屋見習いの時に年貢米の事で役人と争い自棄になり得度しています。相照らす事も出来ます。
江戸の末期とは言え、世情はそんなに混乱していなかった。大名は財政赤字で疲弊していた。が、まだ崩壊するところまでいってなかった。
ここに、イギリス、アメリカが日本を植民地にするという行動を起こしてきています。イギリス、アメリカは植民地をいかに手のなかに入れるか、それはその国に氾濫を起こさせる事、宣教師の布教がうまくいかなかったときには、その国を分裂させ戦わせて勢力を衰えさせて奪う、これは常套手段であった。現在でも
イラク、リビアにおいて国家の分裂をさせるために金を出して反勢力を作り転覆させています。
日本も、長州にはイギリスが支援し、幕府にはフランスの今で言う国債金融が支援をしていました。つまりロスチャイルドが金を出していたという事です。竜馬はその手先で亀山社中を起こし武器弾薬、軍船などを売りさばく武器商人であった。竜馬が暗殺されたのはある筋の怒りを買い殺されました。幕府、薩長の手のものではないと言う事です。
立石孫一郎を理解するうえでは立石亡き後の日本の動きを無視しては過ちを犯すことでしょう。
維新はクーデターです。敬之助はそれを知っていたとは思われません。
日本の未来、そのために殉じた。若くして亡くなっても子供儲け四人の血筋を残しています。
大橋敬之助、立石孫一郎は生きています。その血が続くことにより生き続けていかられことでしょう。
今、歴史は真実を見る事が出来だしました。これから刻々と新しいものに塗り替えられる事でしょう。

大橋さん、そうですか、倉敷市がと言う感じです。地元にいる私も初めて知りました。倉敷市文化振興財団の仕事から離れていますので…。
ひろえさんの目でしっかりと確かめてください。立石孫一郎は私恨のためにだけで倉敷代官所を襲撃してはいないと言うのが私の持論です。高杉晋作には備前藩池田の動きがつかめなかった。徳川慶喜の弟が藩主でしたから。津和野から京を目指す道と、また大軍をひきつれて山陽道からとなると備前藩の動きがどう出るかが問題だった。備中の放虎になって老中板倉の松山を攻めようとしたのはなぜなのか。これは津和野から京への行軍の妨げになる、これなどは私恨からでは起こらない事です。その時期に高杉晋作らは何をしていたのか、坂本竜馬は…。私には孫一郎は陽動作戦をしていた、坂本と高杉の、つまり薩長の表に出ては困る裏取引が行われていた。グラバーからどのような指示が出ていたのか。このような考えは郷土史家にはありません。書いた作品を書きなおす事はありません。大橋敬之助、私のなかでは生き続けています。がこれ以上彼のこころに入り込む事は不遜であるという思いです。明治維新。を支えて一人の人間として、良いにしろ悪いにしろ、足跡には注目しています。
備前藩は幕府にも薩長にもつかなかった、ゆえに函館戦争の折り薩長の命令で戦っています。
私は倉敷の生まれではありません。家人の故郷です。東京に帰るつもりが50年も住んでしまいました。倉敷を書くために倉敷を調べた時期があります。
源氏平家の戦いの水島合戦、俗に言う藤戸の合戦の折りは名もない漁村でした。松山川(高梁川)がおし流す土砂により、その名もない漁村の前には干潟が広がりその支流が今の倉敷川になっています。くらしき、これは蔵があったから、小さな山の上に倉子城があったから、その真実は分かりません。江戸時代にはその川沿いに林立する倉があり石垣を満潮の時には波が洗っていたという事で波倉の町と呼ばれ親しまれたという事です。
幕末のころ大橋敬之助は倉敷に来て何を考えていたのでしょう。何を見たのでしょう。往時をしのぶ街並みが、観竜寺の墓所には多くの倉敷で生きた人の息使いがあるのかも知れません。
6月に来倉されてひろえさんの縁戚の方々が生きたところを見る事で偲んで見て下さい。
また、ひろえさんの親戚の方を敬称なく書きました事をお許しください。
倉敷は熊本より離れていますので地震の事は大丈夫でした。ありがとうございました。
2016/4/16 吉馴 悠



大橋さん、敬之助の御子の事は大橋家の菩提寺に行けば分かるとおもわれます。江戸時代は寺が戸籍係をしていたようなものですので。出産、死亡は過去張に残っているはずです。倉敷は戦火を受けていません。おけいさんを養女と書きましたが江戸から明治にはその事例はたくさんありました。外の女性に生ませた子を養女として迎えて育てる事はそんなに珍しい事ではありませんでした。「あさか来た」のあさも後の三井財閥の妾の子で養女として育て嫁にやっています。そんな時代が続いていました。大橋勢似の事も御寺に行けばはっきりするでしょう。
角田氏は郷土史家ですが、その本は読みましたが、古い中島屋の大橋家と新しい児島屋の大原家は当時は倉敷の双璧でした。大橋家が勢いをなくしてからは児島屋が勢力を伸ばします。当時も、今も大原家の事は真実を書けない事でしょう。倉敷は大原家が握っているからです。特に地元の郷土史家は遠慮して書きません。
立石の脱走と襲撃を書いた「脱走記」は名古屋の女性作家の江原江夏美子さんが小説として発表し直木賞の候補作になっています。亡くなられておられる事でしょうが、探して見られたら新しい事が見つかるかも知れません。だが、この人が取材をしたのが角田氏ですからどのように書いているかは分かりません。読みたかったのですが求める事が出来ませんでした。
大橋家の皆さんは東京へ出られているのですか、倉敷では話か聞こえてきませんから。
私は下津井屋の事件は櫻井代官だと思って書きました。倉敷の幕末を書き本にしていますがそのなかに敬之助も櫻井も書いています。
http://nakano.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/311699
これは検索にて「脱走記」が売られている場所です。よろしかったら求められて読んでは如何でしょう。あくまで小説として、もうひとつの立石孫一郎として…。


立石孫一郎を書いた時に…。


四十年前に書いた大橋敬之助の事を思い出しています。その時は私も敬之助と同じ年齢でした。
私も彼と同じ江戸時代の大庄屋の末裔です。
私は歴史家でもなく郷土史家でもありません。書くに及んで色々なものを調べたり読みました。また、大橋家にも足を運びました。何度も早朝、まだ明けやらぬ倉敷川にかかる三つの石橋を歩き橋に寝転んで明けゆく倉敷の、美観地区の空気と音を体験しました。
正義感が強かった、その事が妙にひっっかかっていました。それは大竹代官が裁いたものを櫻井代官が倉敷は港ではないので津溜めなど起ころうはずもないという裁きで端を発した、下津井屋事件の犯人が敬之助ではおかしいのではないかと言う疑問でした。それは俗に言われている正義ではないと思ったからです。櫻井を児島屋、浜田屋をなぜにやらなかったのか、なぜ下津井屋なのかと言う事でした。津留め破りをして儲けていたのは大店の児島屋であり浜田屋で下津井屋はそんなに大きな商人ではなくその下で動いていただけであったのです。敬之助犯人説に納得がいかなかった。正義と言うのなら櫻井を、児島屋を、浜田屋を襲う事でなくてはならないと考えたのです。
私は世間の書いている事に反目して敬之助を犯人にはしませんでした。
当時、倉敷の商人は商売の傍らで金貸しをして財をなしていました。百姓に金を貸し払えなければ土地を取り上げると言う事は当然でした。家柄は関係なく金で名字帯刀が買えていました。世渡りと商い上手で商人たちは財力にものを言わせて旦那と呼ばれ村の運営を行うまでに大きくなっていったのです。
敬之助、幼い頃から父の跡を継ぐべく庄屋学を修めていた事でしょう。つまり人間としての人望です。自分の事より多くの人の幸せを思う心をはぐくむ事でした。大谷家、立石家、大橋家は親戚同士でしたからそのころの同じ教育を受けていたはずです。
敬之助が大橋家に養子に迎えられると、倉敷の旦那衆は温厚で学門があり人を引き込むお人じゃ、中島屋はええ婿を貰いなさった、と羨み、評判であったと言う。
そんな彼が短慮に事件を起こす事は信じられません。
江戸の末期とは言え、この事件が起きたのはまだ幕藩体制が維持されていた時期です。倉敷の商人は機を見るのが敏で討幕の考えも持っていた人もおりました。それは後の世の事を考えてのものでしょう。
敬之助が立石家で尊王のかんがえをいくら叩き込まれていても倉敷では、江戸時代の末期を予感したとしても、まだ彼は動いてはいなかった。学問の師の森田節斉、剣術の師の井汲唯一らの影響は受けていたと思われます。けいさんとの間に三人の子をなして平和で幸せな生活を過ごしていた。世のなかの流れは見えていたはずです。
大橋家の末孫の人達には申し訳がないが、後の倉敷代官所の襲撃の火種を作ったとしても下津井屋の皆殺し上に放火は敬之助とは判断し難いのです。司馬さんは倉敷の郷土史家に基づいて書いています。冷淡に人を殺す敬之助を書いていますが、江戸時代の武士達は映画やテレビのように人を殺してはいません。それは武士道に反することだからです。質素であり行いの総てを主君に捧げていたので無駄な事はしていません。私の家は庄屋の次男坊で武士の家に養子に上がっていますからその事は承知しています。
台本は時代背景のために、坂本竜馬、高杉晋作を出しています。
今、明治維新の事は新しくなりつつあります。ここで、坂本竜馬に金の亡者を演じさせました。彼は長宗我部の残党で郷士です、そんな彼が動き回るのに金が必要であったのにどこから調達をしていたのか、ここで私も立ち止まりました。グラバーとの出会いでした。この事は今では常識になっていますが、そのころにはその関係を問うものは一人もいませんでした。司馬さんも一切触れていません。彼と敬之助、高杉晋作を絡めました。そして、一気に倉敷代官襲撃へと走らせたのです。
大橋さんからメールを貰い、当時を想起し、また検索で調べましたが総てが敬之助犯人説でした。
けいさんが何か残してはおられませんか、口伝が残されていませんか・・・。
私は一介の戯作者です。
私の想像力は正しいとは思われません、が、疑問があった事をお伝えしたいと書きました。
大橋家は西も東もありません。屋号の中島屋と東中島屋という本家と分家があったと認識してください。
明治維新によるクーデターで日本には沢山の明治政府による歴史の真実が改ざんされている現状はあります。

考えに邪魔になれば総てを水に流してください。

ご出版ご苦労様でした。

もう40年も前に立石孫一郎を書いたものです。また20年前にそれを脚色して「天領倉敷代官所炎上」を倉敷芸文館ホールで公演しました。
40年前と言えば検索もなく手探りで書いたのです。角田氏や井上さん、司馬さんの「倉敷の若旦那」などを読みそれらを参考にして書き上げました。
創作として孫一郎に竜馬、晋作を絡めました。
先月、大橋さんと言う人からメールが届きました。なんでも敬之助の子のひろのゆかりの方で、つい最近大橋家との繋がりがわかりその糸を手繰っているとのことで、私が孫一郎の台本を書いて上演した事を知って書かれているものがあれば教えて欲しいというものでした。
私は孫一郎を書いていて、分からなかったのは竜馬でした。40年も前です、今のようにクラバー、ロスチャイルドの事は明らかになっていません。竜馬には経済的な基盤が何処にあったのか、グラバーに行き着きました。亀山社中の金主をグラバーではないかと思うと、竜馬が日本での武器商人である事を確認しました。
孫一郎は高杉、坂本に関係してはいなかったか、そんな思いが消えませんでした。40年前の事を思い浮かべて書いていますので、ですが、私の中ではよく覚えている事なのです。
私は歴史家、郷土史家ではありません。一介の戯作者です、
改めて書きなおす事はしません。ここで色々と読ませていただきそのご苦労をありがたいと思っています。
櫛部坂太郎の写真と言うのは私も納得がいきません。どこで写したのでしょうか・・・。


倉敷浅尾陣屋騒動の背景のこと
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すべてダウンロード

このアルバムには 1 枚の写真があり、OneDrive で 2016/07/23 まで閲覧できます。
大橋さん、そうですか、倉敷市がと言う感じです。地元にいる私も初めて知りました。倉敷市文化振興財団の仕事から離れていますので…。
ひろえさんの目でしっかりと確かめてください。立石孫一郎は私恨のためにだけで倉敷代官所を襲撃してはいないと言うのが私の持論です。高杉晋作には備前藩池田の動きがつかめなかった。徳川慶喜の弟が藩主でしたから。津和野から京を目指す道と、また大軍をひきつれて山陽道からとなると備前藩の動きがどう出るかが問題だった。備中の放虎になって老中板倉の松山を攻めようとしたのはなぜなのか。これは津和野から京への行軍の妨げになる、これなどは私恨からでは起こらない事です。その時期に高杉晋作らは何をしていたのか、坂本竜馬は…。私には孫一郎は陽動作戦をしていた、坂本と高杉の、つまり薩長の表に出ては困る裏取引が行われていた。グラバーからどのような指示が出ていたのか。このような考えは郷土史家にはありません。書いた作品を書きなおす事はありません。大橋敬之助、私のなかでは生き続けています。がこれ以上彼のこころに入り込む事は不遜であるという思いです。明治維新。を支えて一人の人間として、良いにしろ悪いにしろ、足跡には注目しています。
備前藩は幕府にも薩長にもつかなかった、ゆえに函館戦争の折り薩長の命令で戦っています。
私は倉敷の生まれではありません。家人の故郷です。東京に変えるつもりが50年も住んでしまいました。倉敷を書くために倉敷を調べた時期があります。
源氏平家の戦いの水島合戦、俗に言う藤戸の合戦の折りらは名もない漁村でした。松山川(高梁川)がおし流す土砂により、その名もない漁村の前には干潟が広がりその支流が今の倉敷川になっています。くらしき、これは蔵があったから、小さな山の上に倉子城があったから、その真実は分かりません。江戸時代にはその川沿いに林立する倉があり石垣を満潮の時には波が洗っていたという事で波倉の町と呼ばれ親しまれたという事です。
幕末のころ大橋敬之助は倉敷に来て何を考えていたのでしょう。何を見たのでしょう。往時をしのぶ街並みが、観竜寺の墓所には多くの倉敷で生きた人の息使いがあるのかも知れません。
6月に来倉されてひろえさんの縁戚の方々が生きたところを見る事で偲んで見て下さい。
また、ひろえさんの親戚の方を敬称なく書きました事をお許しください。
倉敷は熊本より離れていますので地震の事は大丈夫でした。ありがとうございました。

大橋さん、敬之助の御子の事は大橋家の菩提寺に行けば分かるとおもわれます。江戸時代は寺が戸籍係をしていたようなものですので。出産、死亡は過去張に残っているはずです。倉敷は戦火を受けていません。おけいさんを養女と書きましたが江戸から明治にはその事例はたくさんありました。外の女性に生ませた子を養女として迎えて育てる事はそんなに珍しい事ではありませんでした。「あさか来た」のあさも後の三井財閥の妾の子で養女として育て嫁にやっています。そんな時代が続いていました。大橋勢似の事も御寺に行けばはっきりするでしょう。
角田氏は郷土史家ですが、その本は読みましたが、古い中島屋の大橋家と新しい児島屋の大原家は当時は倉敷の双璧でした。大橋家が勢いをなくしてからは児島屋が勢力を伸ばします。当時も、今も大原家の事は真実を書けない事でしょう。倉敷は大原家が握っているからです。特に地元の郷土史家は遠慮して書きません。
立石の脱走と襲撃を書いた「脱走記」は名古屋の女性作家の江原江夏美子さんが小説として発表し直木賞の候補作になっています。亡くなられておられる事でしょうが、探して見られたら新しい事が見つかるかも知れません。だが、この人が取材をしたのが角田氏ですからどのように書いているかは分かりません。読みたかったのですが求める事が出来ませんでした。
大橋家の皆さんは東京へ出られているのですか、倉敷では話か聞こえてきませんから。
私は下津井屋の事件は櫻井代官だと思って書きました。倉敷の幕末を書き本にしていますがそのなかに敬之助も櫻井も書いています。
http://nakano.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/311699
これは検索にて「脱走記」が売られている場所です。よろしかったら求められて読んでは如何でしょう。あくまで小説として、もうひとつの立石孫一郎として

ありがとうございます。
岡崎さんの書かれているものは前に読んだことがあります。克明に書かれていました。一つの真実を書き現わされておられると思います。
だが、私は郷土史家でも歴史家でもありません。表記されているその当時の世情に拘ることなくその裏を想起する事により全体を考察したいと思う方です。
大橋家の系図を見てもその当時の家のあり方を偲ばせています。私は下津井屋事件の後に騎兵隊にいた立石が出向き備中の港の下津井会談があったということに問題があると考えています。この件に対してはどの郷土史家も語っていません。この会談で立石の以後の行動がすべて決まっています。岡崎さんはもう盗作は許さない、とは、反論はしませんが調べたものに対しては盗作はありません。書くとしたら参考文献として追記する事だけです。が、私はこの人の物を参考にいたしません。郷土史家と創作者のロマンは異なります。私は、立石の行動の裏に何があったのかを書きたいのであって調べられた物には興味はありません。むしろ維新前夜に長州と薩摩が討幕に対してどのような事を考えていたか、この日本をどこへ持って行こうとしたのかに興味があるのです。その事に立石がどうかかわったのか、書く視点が違います。
楢崎剛十郎の殺害に対しては当時の奇兵隊組織の乱れによる不満が鬱積していたという事もあります。櫛部坂太郎、引頭兵助らの脱走兵に対してはそののちにことは理解していません。
だが、この事件が末孫に何を思わせるのか、維新の前に没した坂本竜馬と立石孫一郎の生き方は次の時代を作る礎石になったと思えます…。

久しぶりです。
そうですか遺品が、それはよろしかったですね。また一つ新しい真実が表に出ますね。
立石孫一郎さんの芝居は私が記憶している範囲ではありません、警察が干渉したと言う事は明治時代なのかも知れません。
私は一介の戯作者、郷土史家の方の物は読んでいません。一人郷土史家の井上さんと話しました。
今明治維新のクーデターがはっきりとしつつあります。
今、もう一度立石孫一郎さん、今の視点で書こうかと迷っています。
私はた立石孫一郎さんが犯人ならなぜ下津井屋をおそったのかが理解できなかった、それは今も思う事です。張本人は児島屋、浜田屋であったので゜すから…。そして、作州の立石家に毛利の感状を貰い受け騎兵隊に入隊してすぐに隊長になっていることも疑問です。高杉晋作、坂本竜馬との繋がりを妄想します。また、倉敷代官所襲撃、浅尾陣屋を襲撃、備中老中板倉を襲撃に向かったのか、この事件によって誰が得をしたのか、備中の放虎となって周防に逃げ帰る、千歳橋の上で清水美作の家臣によって銃撃されて亡くなる。これが義の行いであったのか、大谷、立石、大橋らの、庄屋、大庄屋の系譜からしてそんな短慮な人柄と庄屋道を身に着けていたとは思われません。
これは私の思いです。江夏さんがどのように書かれているかは全く知りません。もとっ前に自死されているので聞きようもありません。
聞かれた郷土史家は、また倉敷歴史資料担当はどなたでしょうか、一度取材をしてもいいと思っています。
大橋さんは立石孫一郎さんの何が知りたいのでしょうか、私は彼の行動は高杉晋作の檄のもとであったと言う認識です。
倉敷に来られて色々と調べてみてください。江戸の末期を俯瞰して明治維新を検証してください。
この当時には日本の開国を必要に迫った世界の動き、今の国際金融が、薩長に幕府に莫大な投資をしています。徳川慶喜がなぜいとも簡単に何倍もの兵力を持ちながら戦を放棄したのか、これも世界の趨勢であったのか・・・。
いたずらに書き連ねました事お許しください。

 この書き込みは立石の子孫にあてたものである。
 今の私には維新は薩長によるクーデターとして、また、イギリスとフランスのロスチャイルドによる画策による植民地政策を書かなくてはならないだろう。

 また、これも四十年も前に書いた「あの瞳の輝き」を潤色して公演したいという申し出があった。
 それらは若かったころの記憶を掘り起こしてくれ蘇らせてくれるものである。
 この作品は「国際児童年」を記念して書き倉敷市民会館大ホールで公演し多くの観客が押し掛けてくれた。
 それらは私の子供たちのような作品で愛着と思い出が詰まっていた。
 最近の出来事だが、私には若かったころの記憶が呼び覚まされる事だった。

 あさの五時に眠り十二時に起きると言う自堕落な生活の中で、午後から耳鼻科へ行き帰りに買い物をするという日々が続いている。この単調さは退屈するが時間の早さをセーブ出来ることもある。
 体調は歳の所為か体のいたるところに不具合を感じるようになっている。これも自律神経失調症なのかと抱え込み仲良く生きようとしているのだ。
 世界の情勢、日本のそれを見ても感情は高ぶらなくなっている、言ってみれば鈍感になっているのか。世界の歴史、日本の歴史の造詣を深めれば深めるほど人間と言うものに対しての情けなさを感じるようになった。また、それらの宗教に深く入り込んでみてもその教えの真理を超えて人間の蛮行を知り愕然とする日々である。
 生きてきた足跡を残そうと書き始めてようやく一応の区切りをつけられた。五十代から六十代、七十代は端よって書いてしまった。急ぎ過ぎたという事で、命があればもっと克明に書き連ねるつもりでいる。
 この歳、七十四まで生きてきて何を思うかと問われれば夢のなかにいたという一言に尽きるだろう。夢のなかで夢を沢山見せてもらった。幸せな思い出を抱えきれないほどいただいたと思っている。
 これからここにときに感じては何か言葉を落としていくことにしたい。

 歳をとると優しくなり穏やかになり、寛容になると言うのもいいが、病にだけはそれは許されない。俄然として戦いを挑む姿勢は必要だと感じる。
 人に必要とされている人ほど健康で長生きが出来ると言うが、万一病魔が近づいてきたら仲良くしながら戦う決意だけはおろそかにすべきではない。それは必要としてくれている人のためにも大切な行為だと感じている。諦観する態度は敗北であり果敢に立ち向かい、
「絶望と悲哀と寂寞に耐えうるものの勇者にならなければならない」これは田山花袋の言葉。
 ストレスを溜めずに朗らかに、笑って、少し体を動かせて、心豊かに生きること。
 心においてと思う。

 六十歳を過ぎたころ次のような随筆を書いている。
     今あるのは・・・。

 六十歳になって何もかも棄てた。劇作家も、演出家も、そして劇団も棄てたのだ。生きてきた縁を棄てることで何か変わると思っていた。何も書かなくなり、演劇を見ることもなく過ごした。何かをしょうと思い立っても何も出来なかった。ただ一日一日が怒濤のように過ぎただけであった。思い返してもこの十年間何をどうしたのか思い出せない。怒濤のようにと書いたが徒労の時間が過ぎたと言うことなのだ。読んだ本と言えば辻邦生の小説、南木佳士の小説、五木寛之の「林住期」くらいのものである。読んでいて書きたいという思いも起こらなかった。もっぱら家人の手伝いで、夕餉を作り、洗濯をし、それを干して、買い物に行くくらいだった。日課はかかりつけの耳鼻科へ毎日治療に通い、一ヶ月に一度内科医へ行き一ヶ月分の血圧の薬と胃の潰瘍が再発しないようにと言う薬を貰うことだった。
 新しく始めたと言えばパソコンである。六十二歳の春であったろう。退屈でしょうがないから何かいいおもちゃでも有りはしまいかと探していたらパソコンに出会った。何も分からないままそれを買った。ワープロを修理にやったときに部品がないから直せないと言われて何かいい物はないかと尋ねるとパソコンにワードというワープロ機能があること教えられたのも買う起因の一つになっているだろう。誰に教わることもなく、とにかく動かせというパソコンの経験者の言葉通り立ち上げてはいじくりまわした。一台目はいじりまわして元に戻らなくなって修理ばかりした。買った金額より修理代ははるかに超えた。プロバイダーに深夜電話をしていろいろと教えてもらった。まだ十分に動かせないのにはやっていたチャツトを始めた。たちまちその虜になってカラオケをやったり自作の小説の朗読もやったりしていた。一か月に一度、仲間と「朝まで生チャツト」と称してテーマを決め議論をした。その当時の最新のネタをああでもないこうでもないと話し合っていたのだ。パソコンに全くど素人の私がホームページを立ち上げて今まで書いていた創作を張り付けたのだ。今それを見てもなんと簡単で幼稚なものかと笑ってしまう。が、その時には真剣な顔で汗を流し睡眠も忘れて取り組んでいたのだ。そのおかげでパソコンの仕組みが徐々にわかってきた。今でもパソコン用語にはとんとなじめない。パソコンはチャツトの仲間にいろいろと教えて貰い、ホームページを作成するときに学ぶより慣れろでよい勉強になった。今ではホームページ三個とブログ四個を立ち上げている。他の人のホームページにははるかに及ばないが愛する孫のようなものになっている。フェースブック、ツィッターもやっている。無論、メールもワードもエクセルもこなしている。動かしながら学ぶということがパソコンの上達の鉄則であることを認識している。映画も見られるし音楽も聞ける。今のパソコンは六台目、ワープロ六台、ノート三台、初めて買ったものも直して今も動いている。

 こんな手紙の書きものをしていました。

あどけない。たくさんの夢を抱えて飛び回って幸せを運ぶ…。きっときっと元気になる。もっともっと幸せになる。考えたって駄目だよ、悩んだっていいことないよ、自分の力で立ち上がらなくては…。深呼吸をするんだ、想い悩んでいるときには…。誰かのせいにしてはだめだよ、きっと自分の心の中に原因があるんだから…。そんな時には眼をつむるんだよ、そこには君の素晴らしい明日が見えるから…。

若い頃から今も、テレビドラマはほとんどみませんが、映画は音を消してみています。台詞は画面、表情を見て想像して頭の中に作るのです。そして人物の過去と現在を見て将来を想像するのです。人間観察をするのです。そんな訓練をしてきました。それを自分の創作に生かすのです。            
京子さんが行ったであろう苦労もわかります。人並みの努力ではだめだったことも、人より少し努力を、人よりチョット勇気を出して、人よりわずかに人との出会いが多くあって、その差は大変大きいことだったこともわかります。  
今頃漸くわかりかけてきました。人の悩みが、この歳になって今までの不養生があだとなり体が拒否反応をするときに、いろいろな悩みを持って苦しんでいるであろう沢山の人の思いが。一人の人間が一人の苦しみを解決してあげられたらどんなに世の中が明るくなるかを感じています。人から見れば些細な事でも本人にしてみれば深刻な問題なのです。若いころ感じなかったものがようやくわかりかけています。これから物を書くときに理解することから始めようと思っています。60歳からの10年間、書かなかった結果の結論なのです。今、そんな思いを抱いて良寛さんと貞心尼の想いを書いたのが、一人芝居「はちすの露」なのです。10年間は無駄ではなかったと思えるようなりました。初心を貫くことも「林住期」なのかもしれないと思えてきました。京子さんから温かい励ましをいただいて書く気が起こりました。うなぎを怖がらず食べて元気を出して…。ありがとうございました。お元気で、つつがなき日々を…。

 少し我が一族の事を書き置きることにする。
 現在、平成二十八年六月十一日。
 私は七十四歳、家人七十一歳、長男四十六歳その妻四十五歳で子供はいない。二世帯同居。同じ劇団員同士が結ばれた。
 二男四十三歳その妻三十歳で七歳の双子の男の子と三歳の女の子。近くに家を買い住んでいる。この夫婦も劇団員同士が結ばれた。
 初めは三所帯同居であったが双子が三歳の時に家を買った。
 波風が少したったが引っ越した。
 私としてはこれから二十数年間もローンを支払い不自由をする事を避けさせたかった。我が家は二十五畳の部屋が二つあり、二十畳と十畳、六畳が二つ、また五十畳のスタジオがある所から必要に応じてリフォームをすればと言う考えであった。
 これからの日本の財政を思うと給料も上がるとは思えなくてそのように考えていたのだ。
 子どもたちにはこれからの世界の動きから起こる日本を知ってほしかった。
 総てが老婆心であればいいと思う。動き出した事を止める必要はないと感じている。
 老いの坂を登るとき、また下る時に人は一息入れて物思うが、流れはせきとめることはできない。
 生きると言う事はその人の立ち位置で花を咲かすと言う事なのかも知れない。それが親子であれ生き方、あり方の姿なのかも知れない。

 今、私はこれからの日本がどう変わり何処へ行くのか危惧している。
 何時の場合でもそのすべてを素直に受け止めて善後策を考えて自分の道を見つけることだ。
 この言葉は子供や孫に残すつもりで書いた。
 人は生きて行く中で、世の中の身分や職責の高低、貧富に左右されやすいがそれが何であろう。そのことに心を裂いていては自らを成長させる努力を低下させることになるのだ。
 自由に生きたまえ・・・。血筋がよかろうが悪かろうがそんなことは幸せとは何ら関係がないことなのだから・・・。職業に卑賤はない・・・。人の命に差別はない。幸せについては人それぞれの価値観がある。相応の生き方、いくら人から何を言われようと卑屈になることはない、それを自らが選んだことだとしたら胸を張って生きることだ。心だけは卑屈にならなかったら何をしてもいい。人の生き方考え方は顔に出るものだ。
 幸せとは自分だけの幸せであってはならない。一人が一人を幸せにする、それが最初の感じる歓喜の感情でなくてはならない。それからたくさんの人を幸せにすることは何をすればいいのかを考えることだ。そのすべてのことは現状が相応に生きていることで生まれることなのだ。
 これからの日本は最も人間性を問われるものになるだろう。今までの価値観では測れない不測の時代になると思って準備を怠ってはならない。
 人が生きると言う問題を第一義として考慮し、そこから目をそらしてはならない。
 健康、平和、社会との協調、それらを認識してあらゆる問題に対処する事が不可欠である。
 社会の成長、を見据えそのなかでどんな思いを持って生きるのかと言う哲学を持ち忘れてはならない。
 将来、ロボット、AI などの人間の排除、その対抗策を考えて幼い見ろから備えなくてはならない。オールマイティーな人間になるよりスペシャリストとしての生き方を会得してそれに備えなくてはならない。
 幸せの基準もおのずと変わるだろう、が、伴侶を見つけ子供をなして、の家庭こそが先祖から受け継いだ血を伝承しそのなかで生き継ぐと言う事を忘れてはならない。
 備えよ、社会の歯車でなく、ささやかな生き方のなかに自分を確立する生き方を会得することに努力する事を…。
来る未来、人の瞳が輝いている事を願う。



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